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スプリングフィールドの戦い (1780年) : ウィキペディア日本語版 | スプリングフィールドの戦い (1780年)[-のたたかい]
スプリングフィールドの戦い(-のたたかい、英:Battle of Springfield)は、アメリカ独立戦争中の1780年6月23日、現在のニュージャージー州スプリングフィールドで、イギリス軍と大陸軍の間で戦われた戦闘である。当時の独立戦争の主戦場は南部に移っており、北部では1778年6月のモンマスの戦いを最後にニューヨーク近辺で両軍の睨み合いが続いていた。そうした中で起こったこの戦いは、長い間、イギリス軍ドイツ人傭兵部隊による単なる奇襲と考えられていたが、1800年代にイギリス軍の記録が明るみに出て、ニュージャージーのモリスタウンに置かれていた大陸軍の作戦本部を襲うことにより、ニュージャージーでの足場を確固たるものにしようというイギリスの戦略であったことが分かった。 == 背景 == イギリス軍は、ヴィルヘルム・フォン・クニプハウゼン将軍の指揮するドイツ人傭兵部隊で1780年春にニュージャージーへの侵入を試み、開戦から5年を経過して戦争に倦んでいた地域住民が味方に付く可能性を探ろうとした。作戦はスタテンアイランドから始め、ニュージャージーのエリザベスに侵攻し、ニュージャージー北部のワチャング山脈を抜ける戦略ポイントであるホバート・ギャップを確保すれば、モリスタウンの大陸軍作戦本部を襲うことが可能になるというものだった。イギリス軍は近衛旅団、チェシャー連隊、スコットランド王室連隊、第43歩兵連隊、王室砲兵連隊、第17槍騎兵隊、第1アメリカン連隊、イェーガー軍団フォン・ドノープのマスケット銃連隊、およびフォン・ボーゼのマスケット銃連隊から掻き集められていた。 スプリングフィールドの辺りはそれまでにもしばしばイギリス軍に襲われ略奪されていたので、住人も特に用心深くなっていた。1780年6月7日に襲われた時はコネチカット農園の戦いと呼ばれたが、現在のユニオン・タウンシップの町に火を付けられ、大陸軍の従軍牧師であったジェイムズ・コールドウェルの妻ハンナが殺された。 クニプハウゼン軍がホバート・ギャップに向かったという情報に接し、大陸軍はロードアイランドの正規兵部隊、ライトホース・ハリーの騎兵隊、およびニュージャージー民兵隊を集め、スプリングフィールドの小さな集落を防衛拠点とすることを決めた。ジョージ・ワシントン将軍は戦いの前日までスプリングフィールドに司令部を置いていたが、防衛指揮をナサニエル・グリーン将軍に任せてそこを離れた。
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